円谷プロの概要円谷プロとは、“特撮の神様”と呼ばれた円谷英二が昭和38年(1963年)に設立した制作プロダクションである。その前身は、昭和23年(1948年)に東宝を解職した円谷英二が自宅に設けた私設研究所だった。その後、英二が東宝に復職した際に“円谷研究所”は、東宝撮影所内に移設され、昭和29年(1954年)まで東宝作品のすべてのタイトル部分撮影、予告編などの下請け作業を行っていた。昭和31年(1956年)には、再び英二の自宅の一室に設置され、撮影スケジュールの中でこなせないコマ撮りや手間の多い合成作業をこなすと同時に他社の特撮業務を請け負っていたとされている。そして、昭和38年(1963年)4月12日、「株式会社 円谷特技プロダクション」という名称で会社登記される。現在の「株式会社 円谷プロダクション」に社名を変更したのは、昭和43年(1968年)12月のことである。 円谷プロの沿革
円谷研究所円谷研究所は、昭和23年(1948年)に円谷英二によって設立された私設研究所である。その後、幾度かの移転変遷を経て、昭和38年(1963年)4月12日、「株式会社 円谷特技プロダクション」という名称で正式に会社登記された。 表記“円谷研究所”は、さまざまな研究書の中で、時期や場所などの違いによっていくつかの呼び名で呼ばれている。 「円谷英二の映像世界/実業之日本社刊」によると円谷英二は、昭和23年(1948年)3月31日付けで東宝撮影所を依願解職。その年、自宅に特殊映画技術研究所(円谷研究所)を設立したとされている。 「空想特撮シリーズ ウルトラマン大全集/講談社刊」によると有川貞昌は、昭和23年(1948年)の円谷研究所発足と同時に参加したとされている。また、昭和25年(1950年)に東宝撮影所内に移された円谷研究所は、昭和31年(1956年)、新たに円谷特技研究所として自宅の一室に設置されたとされている。 「ウルトラマン大全集/講談社刊」では、昭和23年(1948年)の発足時を「円谷研究所」とし、昭和31年(1956年)、再び自宅の一室に設けた施設を「円谷特技研究所」と表記している。 「ウルトラマン大図典/講談社刊」でも、昭和23年(1948年)を「円谷研究所設立」とし、昭和31年(1956年)を「円谷特技研究所設立」と表記している。 「円谷英二 日本映画界に残した遺産/小学館刊」では、昭和23年(1948年)の発足時を「特殊映画研究所(円谷研究所)」と表記、昭和25年(1950年)に東宝撮影所内に設置された時を「円谷特殊技術研究所」と表記している。 円谷特技プロダクション円谷特技研究所は、昭和38年(1963年)4月12日、「株式会社 円谷特技プロダクション」という名称で正式に会社登記された。
設立時のスタッフ「ウルトラマン大全集/講談社刊」によると円谷特技プロダクション設立時に在籍していたスタッフは、撮影の高野宏一、佐川和夫、光学撮影の中野稔、その他、熊谷健、金城哲夫などが在籍していたとされている。また、円谷特技プロダクションの運営組織には、支配人に東宝から市川利明が呼ばれ、総務部長に今津三良、製作部長に清水満志夫、企画室長に金城哲夫がついていた。 東宝からの資本投入昭和38年(1963年)円谷特技プロダクションの設立時に東宝と契約していた円谷英二は、正式な会社としての円谷特技プロダクションの存在を東宝には知らせていなかった。円谷英二が、独自のプロダクションで仕事をしていることを知った東宝は、円谷特技プロダクションに砧の衣装倉庫を提供し、昭和39年(1964年)3月30日には、正式に資本と役員を投入。 「ウルトラQ伝説/アスペクト刊」、「特撮の神様と呼ばれた男/アートン刊」によると円谷特技プロダクションの設立当時、円谷英二は、東宝と契約していたが、このプロダクション設立のことを東宝には知らせていなかったと書かれている。 「ウルトラマン大全集/講談社刊」によるとテレビ界への進出を図っていた東宝のバックアップで円谷特技プロダクションがスタートしたとされている。
日活映画「大平洋ひとりぼっち」円谷特技プロダクションの最初の本格的な仕事は、市川崑監督の日活映画「大平洋ひとりぼっち」の特撮部分である。この時、撮影に携わったのは、松竹で特撮監督を務めていた川上景司、製作担当に奥村昌之、特殊美術には、東宝から石井清四郎、照明の後藤忠雄、ヨットのミニチュア製作に倉方茂雄、助監督に熊谷健、撮影助手として日大の学生だった鈴木清、中堀正夫が参加していた。 「ファンコレNo.2/朝日ソノラマ刊」や「ウルトラマン大全集/講談社刊」によると劇中、マーメイド号が大平洋上で台風に襲われるシーンは千葉県勝浦市川津の万名浦で撮影したとされている。
テレビ界への進出昭和37年(1962年)、映画界で“特撮の神様”と呼ばれていた円谷英二を最初にテレビ界に引っ張り出そうとしたのは、当時フジテレビ映画部に在籍していた円谷英二の次男・皐(のぼる)だった。フジテレビは、円谷特技研究所と共同で「WOO」というタイトルの特撮テレビ映画の企画を進めていた。しかし、この企画は、フジテレビとの契約がまとまらず幻の作品となってしまう。円谷プロのテレビ界進出は、昭和39年(1964年)に制作が決定したTBSの特撮テレビ映画「UNBALANCE」によって実現した。「UNBALANCE」は、制作中にタイトルを変更し、昭和41年(1966年)1月2日に「ウルトラQ」として放映された。 「ファンコレNo.2/朝日ソノラマ刊」によると円谷英二をテレビ界に引っ張り出そうという動きは、円谷特技プロダクション設立以前の昭和37年(1962年)にすでにあったと紹介されている。 円谷プロダクション昭和43年(1968年)12月6日、「株式会社 円谷特技プロダクション」は「株式会社 円谷プロダクション」という社名に変更される。 「ファンコレNo.2/朝日ソノラマ刊」と「ウルトラマン大図典/講談社刊」には、社名が変更されたのは、昭和43年(1968年)10月と紹介されている。
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