「UNBALANCE」の概要「UNBALANCE」とは、TBSと円谷特技プロダクションによって制作されることになった日本で最初の本格的な特撮テレビ作品であり、「ウルトラQ」の初期段階の番組名、つまり、「ウルトラQ」そのもののことである。その内容は、昭和38年(1963年)ごろからテレビで人気を博していた外国ドラマ「未知の世界 ミステリーゾーン(原題/The Twilight Zone)」や「アウターリミッツ(原題/Outer Limits)」を強く意識したSF怪奇路線をテーマにしたテレビドラマとなっている。昭和39年(1964年)9月27日に「UNBALANCE」というタイトルでクランクインしたこの作品は、その後、TBSの意向によって怪獣をメインにした「ウルトラQ」へと路線を変更される。「ウルトラQ」全28本の作品の中で「マンモスフラワー」「悪魔ッ子」「変身」「あけてくれ!」「宇宙からの贈りもの」「鳥を見た」の6作品は、UNBALANCE時期(昭和39年(1964年)9月〜12月ごろ)に制作された作品である。 「ファンコレNo.2/朝日ソノラマ刊」や「ウルトラQ LDメモリアルボックス」の解説書などによるとTBSは、円谷プロに昭和38年(1963年)の夏頃から特撮テレビ作品の制作を打診していたとされ、実際に話が具体化したのは、昭和39年(1964年)1月。この時、すでに「UNBALANCE」というタイトルも決定していたと紹介されている。 企画書「ウルトラマン大鑑/朝日ソノラマ刊」や「ウルトラQ伝説/アスペクト刊」などによると「UNBALANCE」の企画書は、2種類が現存している。企画書の表紙には、初期の企画書が英語表記で「UNBALANCE」、第二次の企画書がカタカナ表記で「アンバランス」と書かれたものである。 「ウルトラマン大鑑/朝日ソノラマ刊」には、この2種類の企画書の全文が掲載されている。 「ウルトラマン創世記/小学館刊」に紹介されている「アンバランス」の企画書の前文は、上記の2種類の企画書前文とは違っており、マスコミ用に作られた「ウルトラQ企画書」の前文とタイトル表記以外(タイトル表記は「ウルトラQ」)、同一である。 「ウルトラマン創世記/小学館刊」によると「アンバランス」の企画当初、中心になって動いたのはTBS映画部部長・津川溶々とプロデューサー・渋沢均、円谷特技プロダクションの金城哲夫、市川利明、熊谷健とされている。 脚本「ウルトラQ伝説/アスペクト刊」などによると「UNBALANCE」の脚本は、「WOO」と同様に日本SF作家クラブの協力によって制作されていた。企画書には、1クール分13編のサンプル・ストーリーが掲載されている。
オプチカルプリンタ「ウルトラQ」の制作に関して伝説的に語り継がれているアメリカ・オックスベリー社のオプチカルプリンタ1200シリーズは、当時、世界に2台しかなかった最新鋭の光学合成撮影機だった。 「ファンコレNo.2/朝日ソノラマ刊」や「ウルトラQ伝説/アスペクト刊」などによるとそのオプチカルプリンタ1200シリーズは、当時、世界に2台しか存在しない最新鋭の光学合成撮影機だったとされている。1台11万ドル(当時のレートで日本円に換算すると4千万円)で、2台のうち1台は、当時の東ドイツに納品され、残るもう1台は、アメリカの国防省に納品される予定になっていたと紹介されている。昭和39年初旬、オックスベリー社を訪れた円谷英二は、そのオプチカルプリンタ1200シリーズの購入を希望した。オックスベリー社の社長は、円谷英二の熱意にうたれ、国防省に納品する予定だったものを回すことにしたとされている。しかし、購入資金のあてにしていたフジテレビ「WOO」の制作が中止となり、オプチカルプリンタは宙に浮くことになったとされている。 「ウルトラマン創世記/小学館刊」によると円谷英二は、購入資金のあてもなく注文してしまったと紹介されている。 「ウルトラマン大鑑/朝日ソノラマ刊」に栫井巍が寄稿した「夢を紡いだ人々」によるとオプチカルプリンタ1200シリーズの関する話は、当時TBSに席をおいていた円谷一が購入資金を借りれないかという形で持ち込み、最終的にTBSが肩代わりをして購入することで決着したと紹介されている。また、当時、一般的なオプチカルプリンタは、800万から1千万円程度で、当時のTBSにあったあらゆる機材の中にも1千万円を超える機材はなく、ましてオプチカルプリンタを所有する放送局は、世界中を探してもなかっただろうと紹介されている。そんな中で4千万円もする機械の購入を決定することはたいへんな決断だったといわれている。昭和39年(1964年)6月、横浜港に到着したオプチカルプリンタ1200シリーズは、赤坂のTBS映画社・Aリハーサル室に設置された。 「ウルトラマン創世記/小学館刊」によるとオプチカルプリンタの一件で奔走する円谷英二と皐を見兼ねた円谷一が、TBS編成局長の大森直道に話を持ち込み、大森が前原編成局次長と相談の上、経営本部に話を上げ、役員会議を経て話がまとまったと紹介されている。 劇判音楽「ウルトラQ伝説/アスペクト刊」によると「UNBALANCE」の劇伴音楽は、当初、佐藤勝(「美女と液体人間」音楽担当)や石井歓(「妖星ゴラス」音楽担当)が候補にあげられていたが、最終的に「WOO」の予定にあった宮内國郎に決定したとされている。 「ウルトラQ LDメモリアルボックス」の解説書によると佐藤勝、石井歓の他に塚原哲夫(大映制作の各種映画で音楽を担当)の名前も上がっていたとされている。 登場人物初期の英語表記の「UNBALANCE」の企画書によると登場人物の設定が、実際に制作されたものと異なっている。初期段階の登場人物は、万城目は、空を飛ぶスーパーカーを乗りこなすカーマニア、一平は、「タイガー」と呼ばれる熱血漢、由利子は、名字が「倉方」で万城目の恋人という設定になっており、一の谷博士は、58才の物理学者という設定になっていた。この設定での脚本として、「悪魔ッ子」(サンプル台本)が残っている。 製作「UNBALANCE」名義の作品「UNBALANCE」は、途中から「ウルトラQ」というタイトルに変更されたが、制作開始当初、脚本も「UNBALANCE」というタイトルで印刷されていた。現存する脚本の中で「UNBALANCE」名義の脚本は、脚本No.1の「マンモス・フラワー」、No.2「変身」、No.3「悪魔っ子」、No.4「幽霊自動車」、No.5「206便消滅す」、同じくNo.5「宇宙からの贈りもの」、No.6「あけてくれ!」、No7「鳥を見た......」の8作品。この中で、No.4の「幽霊自動車」は、路線の変更により制作が見送られたため、No.5の「206便消滅す」が、繰り上がって脚本No.4になったが、その時点で「206便消滅す」は、「ウルトラQ」名義に変更されている。従って、実際に制作された作品で「UNBALANCE」名義の作品は、「マンモスフラワー」、「変身」、「悪魔ッ子」、「宇宙からの贈りもの」、「あけてくれ!」、「鳥を見た」の6作品ということになる。 クランクイン「UNBALANCE」のクランクインは、脚本No.1である「マンモスフラワー」である。「マンモスフラワー」のクランクインは、昭和39年(1964年)9月27日(日)午前9時ごろ、皇居お堀端において、お堀に浮かぶマンモスフラワーの根っこを見る万城目ややじうまたちのシーンだった。この撮影には、佐原健二、西條康彦、桜井浩子に加えて、やじうま役の中には、後にウルトラマン役や「ウルトラセブン」のアマギ隊員役を演じた古谷敏も入っていた。この「UNBALANCE」のクランクインは、実質的には、「ウルトラQ」のクランクインということになる。 「ウルトラマン青春記〜フジ隊員の929日〜/小学館刊」などによると桜井浩子は、この撮影に遅刻したと紹介されている。 「ウルトラマン創世記/小学館刊」によるとこの日(昭和39年(1964年)9月27日(日)午前9時ごろ)は、曇天だったと紹介されている。 プロデューサの交代「UNBALANCE」の制作決定直後、TBSサイドの番組プロデューサーには、渋沢均があたっていた。 「ウルトラQ伝説/アスペクト刊」によると昭和39年(1964年)の晩秋、渋沢均に代わって栫井巍がプロデューサーに就いたとされている。「UNBALANCE」は、このプロデューサーの交代によってSF路線から怪獣路線へと変更することになったようである。 「ウルトラマン創世記/小学館刊」によると渋沢プロデューサーは、会社側から明確にプロデューサーに指名されたわけではなかったと紹介されている。 渋沢均がクレジットされている脚本は、以下の通り。
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